ライフネット生命の創業者で、立命館アジア太平洋大学の学長なども務めた出口治明氏が、人生の楽しみは喜怒哀楽の総量で決まる、と言ったそうですが、いかにも正しい主張と思われます。
陽明学の創始者王陽明先生は喜怒哀楽について、「天下のこと万変といえども、吾がこれに応ずるゆえんは、喜怒哀楽の四者を出でず」と言っています。
つまり天下の事はいかようにも変化するが、私がこのような変化に接するに際しても、それをいかに喜び、怒り、悲しみ、楽しむかという基本的な心のあり方を離れるものではない、と。
しかし人間の感情というのは、喜怒哀楽以外にも、恨み、憎しみ、嫉妬など、情念ともいうべき種類があります。
私は、人生の幸福度や精神的な豊かさは、喜怒哀楽の総量ー(マイナス)情念の総量で決まると言った方が、より厳密ではないかと考えます。
喜怒哀楽という基本的な感情と、情念との決定的な違いは、因果関係の有無です。
第一志望に合格したから喜ぶ、妻が勝手にプリンを食べたから怒る、親族を亡くして哀しむ、親友と酒を飲んで楽しむ。
こう言った具体的事実から生じる感情は、時とともにその作用が小さくなり、いつしか何もなかった日常に戻るものです。
しかし情念というものは、発生原因が具体的事実に必ずしも基づいておらず、また時間とともに、消滅するどころか、自己増殖してしまう点に特徴があります。
「はて、妻が勝手にプリンを食べたのは、果たして彼女がいうようにただの間違いだったのか。俺をからかうためにワザと食べたのではないだろうか。そうとすると、俺が隠しているへそくりも、既に知っていて勝手に使っているかもしれない。いや使っているに違いない。どこまで外道なやつだ。待てよ、最近食事中にやたらと携帯を触るようになったな。もしや不貞を、、、」
という具合に。
こういう風に書くといかにも冗談めいていますが、社会生活を営む上では日常茶飯事のことで、些細な事実をきっかけに、悪い方に悪い方に妄想を膨らませて、一人で他人のことを恨んだり、憎しんだりする人は結構多い。
そしてこういう妄想は、本当の意味での喜怒哀楽が少ない人が陥りやすいものです。
それは、喜怒哀楽の感情は情念に対して優先するからです。
一方、喜怒哀楽のない状態(これは例えば、特に予定もすることもない休日に、見たくもないテレビ番組をなんとなくつけている状態を思い浮かべてください)にあっては、情念はたちまちあなたの脳を支配して、急激なスピードでその支配範囲を拡大するのです。
こういった日常は、放置すると、その人の性向や抱えているストレスの度合いによって、うつ病といった心の病に至ってしまうリスクを高めてしまいますので、注意が必要です。
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